占星術の発祥・ホロスコープシステムができるまで

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この世界はどのように出来ているのか、その宇宙についての観察は現在の時代も今後も、おそらく変わらず、時間と空間の広がりの観察は知的な発達を伴った人類の課題である。

最古の月の観察は先史時代のBC4万年、動物の骨に月の満ち欠けの印をつけたものが見つかっている。どの文明期の始まりも、月の観察をした太陰暦であった。

人が定住し始める文明期は文化の発達。メソポタミア期のシュメール人は、神殿を囲む広場を持ち、それまで部族間に崇拝されていた神々を、国家神にまで高め、自然信仰の多神的な土母神たちは後々天の神にも進化せず、20世紀に入ると、神々の名が刻まれた楔形文字の粘土板が沢山見つかっている。星の観察はしていたが未だ天文学にも占星術にも満たないBC3世紀、メソポタミア最初の都市国家のシュメールでは、すでに10進法と60進法の単位で計算術を使うようにまでなっていた。(位取りは1→10→60→600→3600)なぜ60であるかの疑問は、単なる度量数であったという偶然性でありながら、後のギリシャ天文学を発展させる基礎となった。

バビロニア期、占星術の発祥になるバビロニア国のカルディア人は、その代数的である計算方法を受け継ぎ、円の360度を360日に、1度を1年に換算し、時刻もその観念に従い時間の取り決めを行い、太陽の観測をする道具に日時計と水時計を使い、影の曲線が太陽の運動に比例することに伴って、夏至と冬至の時間を追うことに成功する。BC1500年頃には初期の天文計算が行われ、日出直前の星の観察が行われていた。またこの頃、占星術予言書「エヌマ・アヌ・エンリル」では、天文現象に伴い、地上の様々な現象を集積している。BC540年頃には、天の座標軸を正確に捉えるため、太陽が通過する黄道帯(地上から見た太陽が通過する道)にある星座を目安にし、30度づつに区切り、おおよそ今の体型的なホロスコープの概念が出来上がる。これにより星の観測の精度や周期性が増大することとなる。

BC300年頃、ペルシャに滅ぼされたバビロニアのカルディア人はギリシャへ移り、ギリシャ人へ天文学、占星術を伝授する。BC150年頃、ギリシャの天文学者ヒッパルコスは毎年春分点が50秒西へ逆行し歳差が起こっていることを発見し、毎年の春分点を牡羊座0度にするよう定め、それは現在占星術の技法、「トロピカル方式」である。ヒッパルコスの業績は、バビロニアから引き継いだ60進法を発展させた三角関数の幾何学で、星座の位置を正確に導き出した早見表を作成する。AC150年、ローマ帝国時代、天文学者プトレマイオスは惑星仮説となる「アルマゲスト」、占星術古典の「テトラピプス」を執筆する。
しかしプトレマイオスの著作には12ハウスの概念は記載されておらず、占星学の権威である石川源晃の著書によれば、12ハウスは12サインの歴史よりも遅れ、おそらく4世紀になってからそれぞれのハウスを30度ずつの等分に分ける「イコール・サイン」が使用されるようになったと記述されている。

参考 矢島文夫「占星術の起源」、中山茂「西洋占星術史」、ヴァン・デル・ヴァルデン「数学の黎明」、石川源晃「応用占星学入門」