『フォロウィング』は、クリストファー・ノーランの長編デビュー作である。
モノクロで描かれているが、不思議と古さを感じない。
主人公ビルは、小説家志望の失業中の青年で、人を尾行するという奇妙な趣味を持っていた。
危うい行為ではあるが、彼には一つのルールがある。
「ここから先には入らない。」
尾行はする。しかし相手の人生には踏み込まない。
その境界線が、ビルという人物を表しているように思えた。
ある日、ビルは尾行した男、コッブに逆に見つかり、彼の世界へ引き込まれていく。
コッブは空き巣を仕事にしていた。
しかも、彼は単に金品を盗むだけでは済まない。
部屋の物をわざと動かし、盗んだ下着を別の家へ置くなど、人間関係も揺るがそうとする。
そこで理由を聞かれたコッブは、
「人は大切な物を失った時に、初めてそれに気づく。」
と言いながら物陰で笑った。
一見すると人生論のようにも聞こえる。
彼の哲学というよりも、人を動かし支配するための彼自身の論理だったように思う。
空き巣自体は目的ではなく、人の心理を読み、相手を思い通りに動かすことが目的だからだ。
ビルも人を観察する。
コッブも人を観察する。
しかし、その先が違う。
ビルは他人を眺める。
コッブは他人の人生に入り込み、状況そのものを動かそうとする。
距離の取り方や世界を見渡す視野の広さの違いがあった。
ビルは、自分の見えている範囲で判断し、行動する。
コッブは、人の心理だけでなく、状況全体を見渡しながら動いている。
終盤、ビルは事件の真相を知り、自ら警察へ向かう。
真実を話そうとする行動さえも、すでにコッブの計画には織り込み済みだった。
あの場面を見て思い浮かんだのは、オセロだった。
ビルは対等にゲームをしているつもりだった。
そして最後の一手を置いた後、自分が駒の一つに過ぎなかったと気づく。
時間が遠のくような気配を纏い、ビルは力なく「イエス」と言った。
ただその姿からは負けの原因をまだ掴みきれていないように思えた。
ビルとコッブは、ともに人を観察していた。
しかしその在り方は対照的だった。
一人は流れに巻き込まれ、一人は流れを作る。
ビルには善良さが残る小心者で、コッブは人の心理を利用する狡猾さで全体を支配していく。
ノーランは、その対比を通して、人がどのように状況へ飲み込まれ、自分を見失っていくのかという内面の変化を描いていたように思う。
クリストファー・ノーランの作品は一度観ただけでは終われない。
終わってから何度も自分の考えを修正し、上書きをしてしまう。
そして、『フォロウィング』で感じたこの視点は、ほかの作品にも通じているのだろうか。
もう一度他の作品も観てみようと思う。
