選ぶより見つける時代

日常

ポストに届いた、百貨店からのシークレットセールの案内。割引率は40%オフ。昔ならすぐにお店へ向かっていたはずなのに、今の私はまったく行く気になれない。
昔はセールに行けば、欲しいものが必ずひとつは見つかった。でも今は全体的に高すぎる。良いなと思うものは、平気で10万円を軽く超えている。

思えば最近、昔好きだったブランドの印象も随分変わってしまった。誰もが知る大きな企業に買収されてしまったからだ。手頃な価格にはなったけれど、どれも似た雰囲気になってしまい、あまり買う気にはなれない。安くなるのは悪いことではないけれど、長く使えるとはどう考えても思えないのだ。効率化や世界展開を考えれば当然の行き着く先なのだろうし、年々どこの百貨店に行っても同じブランドばかりが並ぶようになった。

昔に比べれば選択肢自体は多くなっている。しかし、ワクワクしない原因はそこではない。服だけでもなく、最近買い換えようと考えていた家具なども含め、自分が納得する価格帯や「独自の世界観」を持つものが、世の中から少しずつ減っているのだ。

どれも決して悪くはない。だけど万人受けを狙った似たり寄ったりのものが多すぎるのではないか。以前は「歳を取ったから好きなものが減ったのかな」とも考えていたが、そうではなさそうだ。選びたいと思えるものに出会う機会が、時代とともに減っているのだ。

だから最近の私は、百貨店に行くよりも自分で店を探すことが増えた。素敵だなと思った店は写真に残している。ネットで評判の店を調べてみても、実際に行ってみないとわからない。そうやって苦心して店を探すうちに、店の姿勢も大きく二つに分かれることに気がついた。

ひとつは、検索で見つけてもらうために工夫を凝らす大きな企業。広告を出し、口コミを集めてSNSを更新する。情報化社会のなかで生き残るためには当然の手法だ。

もうひとつは、「知る人ぞ知る」存在で十分と考えている昔ながらの個人商店のような店。量産はせず、地域の人や、手が届く人に来てもらえればそれでいい。だからメディアの取材も断るのだろうけど、それゆえに探す側からはなかなか見つけにくい。

昔は百貨店に行って、並んだものから「選ぶ」というストレートな買い物だった。だけど今は、どこかにひっそり存在するものを「見つける」プロセスそのものに価値がおかれる時代になっているのだと思う。

そしてふと気づくと、私自身も個人事業主であった。
個人商店は背負うものが大きい。なにしろ身体はひとつしかないのだ。自由な時間に一息ついたり、映画を観る時間のような余白を残しておかなければ、自分が枯渇してしまう。だから個人商店には、細く長く、ニッチに生き延びるための選択肢を模索する瞬間が常にあるのだろうと思っている。

見つける方は大変だけど、「宝探しのような買い物を楽しむ」方向へ舵を切るのも悪くはない。偶然の出会いがあり、店に入ってみたら案外良かった。そしてそれが深く記憶に残る。これからの買い物は、単なる選択肢の多さではなく、「見つける価値」の時代に入ったのだろうと実感している。