へきえきする社員教育の存在

ブログ

占い館へ向かう静まりかえる電車の中、隣に座るサラリーマンの小声が耳に入る。他人に聞かれたくない話に人は興味を抱くものだが、それは内容による。その内容は、自社では新人教育が1週間宿舎で行われ「ウチの会社は、最後には泣かせて終わる。」という驚くべきものであった。電車内の人達は聞き耳を立てていたに違いない。ブラック企業にありがちな新入社員への自己開発教育は、諸刃の剣のようにフォローが必要であるはずが、恐怖政治は泣いて終わる。そうして私は電車を降りた。


軍隊形式の規律を重んじる合宿を、ゆとり教育を受けた新入社員は望んではいない。もしそのような合宿に遭遇したら、(人生の通過点のある時期として望まざるものではあるが)自分の壁を突破する経験にするために、辛く自分に向き合う経験は他人に翻弄されず、冷静な思慮深さで乗り越え、嘘泣きだけはそれらしくすれば良い。寺の禅修行ならまだしも、ゆとり教育や家庭の尻拭いとでも言いたげで怒りは覚えても良い。1980年代の流行りと私は記憶するが、景気の上下に関係なく業績向上のための人為的目論みが透けて見えるのだ。人材教育とは聞こえが良いが、骨太な精神力を植え付けると見せかけたマインドコントロールの踏み絵である。


その企業の体質はさておき、そのサラリーマンは「自分個人としては馴れ合いを認めても良いと思うが、会社がそれを求めない。」と続け、何だか支離滅裂な見解である。結局何も育ってはいないではないか。男性の話ぶりが穏やかで思慮深く、救いであるようなすり替えは、企業の「厳しい規則性の中で、自立した社員が貢献する社風」に、順応できる人材である。


日本企業らしい規律性と忠誠心は人を抑え、我慢するほど出世する。ちなみに私が外資系企業に勤めた経験では、定期的にOJTや試験が実施され、スパイラル的に皆で得手不得手を補い合い向上と刷新を図る企業風土があった。他業種との交換可能な、社会的人材の育成がそこにあった。先の企業が選別する人材は、体育会系精神に鍛えられた素直な大学生像のように思われるが、よく考えれば、自分自身の人間的向上心や価値観は必ずしも他と一体であるはずがない。日本の「企業の求める人材」は、未だ終身雇用時代の呪縛から逃れられず、人間的素養を育てる意識が足りないんじゃないか、と考えさせるひとときであった。